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Usor:Atsushi~lawiki

E Vicipaedia

社会は産・学・官の3つで成り立っている。会社には大企業と小企業がある。技術系の企業が一番重要で大切だろう。

学生と新入社員をどう教育するかが課題だ。

あとは情報だ。情報を取り入れれば良い。

人とのふれあいを大事にしよう。

そして、すべては感じである。

そして、コンピュータはテキストである。

それから、工夫とはシステムの種類の変化である。

最後に、すべては宇宙の仕組みを使って作られている。

僕は植物が好き。

反射は素粒子の力による光を曲げる作用。

素粒子とは光につねに力を与え続けるものだ。電子も同じ。波長の違いによって、光が電子に取り込まれるか反射するかが決まる。素粒子の与える力の波長との相互作用であり、ようは原子核における素粒子の数によって反射するか電子に吸収されるかが決まる。それが色だ。

分子とは電子の力がくっつきあったものであり、それはようは素粒子の波長とのかねあいであり、そして物質とは光と力だ。つまり宇宙とは光と力だけでできている。

では、力が光を曲げるものであるとして、光とは何か。それは存在のすべてである。つまり光とは神だ。

そして、その普遍の法則でこの複雑なようで単純明快な世界が出来ている。プラトンは光をイデアと呼んだ。そして、光の次元が宇宙の次元である。空間は光である。次元は光である。すべては光である。

ようは、光と言う波の粒子とその向き、そして向きを変える点だけでこの宇宙はできているのだ。この空間は波(粒子)でなみなみいっぱいになっている。つまり光がエーテルなのだ。それじゃ、さようなら。

細胞とは光を吸収するための装置であり、そして自由の生命は自分をつねに作り直す。

すべての知性は環境理解と想定だ。

時が変化する中での物体の特性の一致がその物体の認識である。

人間は、特性はつねに違うものの、人間としてつねに認識できる。顔の認識はそのためだ。

目は光と空間を認知するためにある。

空間は波である粒子の動きと場所を決める。

成長とは認識の変化であり、そして普通の生活をとりつづけるものだ。普通の生活とは関係性をとくにもたない状態ともつ状態を切り替えながら生きる状態のことだ。

つまり、目線とは環境認識と想定であり、場は認識と関係性だ。目線と場を逆にして捉えることができる。

つまり、人は他の目線に拘束されながら、自身の場を目線として用い、そして他の場に適応する存在だ。

その切り替えが普通の生活だ。

拘束と適応を逆にすることも出来る。そして、適応できれば、必ずしも拘束される必要は無い。

つまり、第一の自由は適応であり、第二が習得、三が理解、四が構築だ。

習得できることで自在に理解でき、そしてそこから構築できる。

そして構築されたものについて理解し、適応させるために習得することがこの世の唯一の自由だ。

違いを理解すれば、構築、理解、適応、習得しやすい。

あとはそのモチベーションだ。Googleで検索するのが楽しければ、それが一番良い。

対象を決めてそのために努力するのも、対象を決めず欲求を満たすためにするのも良い。両方同時にやるのが理想であり、そしてそれをすれば良い。その上で想定と環境理解を記憶と意識、目線、そして場、そしてそれらのための想像力を高めていくことでなせば、最高の知性を手に入れられる。

つまり、当然普通にやっている知性を生かし、環境を変えて相互に理解することをすれば、それだけで良い。

楽しみは、たとえばものの評判を知って理解することがある。人の人生を聞いても良い。人の助言をうけとっても良い。そして、使うのが楽しければどんどん使えば良い。表現も良い。自由な変化も良い。感情も良い。生き物とのふれあいも良い。ものづくりもいい。仕事やボランティアも良い。楽しみは最高のモチベーションであり、恐怖は最悪のモチベーションだ。

日本語は数式と同じ。日本人は数式を必要としない。

そしてそれは朝鮮語も同じ。日本と朝鮮の対立がこの世のすべてである。

日本は自分で考え、朝鮮は理性に従う。現実世界では日本の方が正しい。

そして、デジタルな世界では、LinuxとMicrosoftの対決がすべて。そして、ここでは、理性がすべてであり、LinuxもMicrosoftも互角だ。そして、僕は、Linuxを求め、Windowsを使うことにした。

結局全ては理性が全てだ。そして、朝鮮より、日本における知性の発揮の方が上回る。なぜなら、知性を使わない歴史のごった煮の方が、知性を使ったまとまりある歴史より、より考えに富むものだから。それはLinuxも同じ。Microsoftの統合された環境での知性の発揮より、Linuxのごった煮の中での知性の発揮の方が、より理解するにふさわしい。

それは、ごった煮であるイギリス、そしてすべての集積であるアメリカがこれまで、スペインなどに比べて繁栄してきたのと同じ。これからは、よりそうである日本がそうなることだ。なぜなら、その二国が今まとまりを求めているのにくらべて、日本は今もごった煮を目論んでいる。そして、まとまりを求めれば、最高の知性になる。今からは量子力学の時代だ。

結果的には、経済的にいって、国の政治と経済、つまり意識が全てである。景気とは、ようは何であるか。それは、考え方の発揮による、人々の意識を予測した上での、人々の購買における富の偏りの予測である。Amazonがそこに一番近い。そして携帯電話、つまりここでも日本、そしてインターネットとコンピュータ。それは、アルビン・トフラー、富の未来を読むと良い。

考え方は、言語、宗教、政治思想、そして現状、つまり意識と法によって決まっている。

つまり、コンピュータとインターネットを使った、評判の理解が一番日本と世界の今後を予測するに近い。それは物とスポーツである。そして、人々の普遍的な生活を理解することで、人生を知り、そして全世界を具体的に知ることができる。現在のブログ、そして過去における掲示板がそうだ。現在はMixiが一番近い。過去におけるはてな。そして、これからは放送大学。

これは意識操作、つまりCMと同じ。

つまりインターネットはすごい。そしてコンピュータはこれから。

そして、そうしたインターネットの世界から、コンピュータとソフトウェアの歴史、ハードウェアの歴史を参考にしながら歴史を理解すると良い。そしてユーザーニーズ。

日本は数学と語の融和であり、他は分裂。中国だけがここで対立する。そして、中国と日本の対立がこれからの全ての対立となる。朝鮮はもう終わっていく。西洋ではやはりごった煮である、しかしより良い教育を持ったフィンランドが、EUの政治と経済の中でこれから大きく現れ、伸びていく。

そして、フランスはより共産的に(人々の意識によって)なり、ドイツは無政府主義的に、そして、その二国と歴史を持ったイタリア、つまりEUの主要な経済三国が、ナショナリズム化するロシアとファシズム化するアメリカとともに大きくなる。

そしてWeb時代、これは梅田望夫氏のWeb進化論を読んだら良い。

そして日本はこの全てを経緯とし、最高の国になっていく。

日本語が作り出した、語学と数学の結晶、つまり言語そのもののなした創作物がアニメであり、漫画である。表現による表現である。しかしながら、自由を求めるならばそれに入るべきではない。なぜなら、それは表現による自由、あるいは自由による表現、そして自由による自由であり、自由による自由、つまり自然な自由が、表現による表現、つまり自然な表現と対立するからであり、なぜなら表現とは現実を飛び越すものであり、自由とは現実を考えるものである。よって、表現によるフィクション、つまり文学、アニメ、そしてゲームはそうした面から見て現実を扱う自由と言う概念と対立するのである。だから僕は最終的に漫画とゲーム、アニメを嫌った。漫画とゲームは以前は大好きだ。だがしかし、そのもっている特性によるむなしさに気づいてゲームをきらい、そしてとりこまれることをおそれてアニメを嫌った。

だが、表現による自由は自らを自由にする素晴らしいもので、自由を表現すること、すなわち自由による表現は、現実に確かにある、しかし目に見えない考え方の認識を図や絵画にすることでより良く表現できるという面から見て素晴らしい。

そして、自然な表現は絶対に無くしてはならない。僕はデザインも芸術の全ても大好きだ。なぜなら、素晴らしい。美の素晴らしさ、そして未知の素晴らしさ、目線と場の素晴らしさがそこにある。だから表現は好きであり、絶対にあるべきである。

全ては表現と言う名の見たもの、景色、映画、などと、考え方である自由で成り立っている。表現が無ければ自由も無い。その逆もだ。そして自由に表現を楽しむべきであり、音楽もそうだ。そして、必ず、表現のあるところに自由があり、そしてそれが理想だ。

なぜ皆共産主義を信奉しないのか?僕には分かっている。みんなそれが正しいと思っているんだろ?その上でそれを否定している。だが、共産主義は一つの考えに過ぎず、そして真の自然の自由という概念から見れば相容れない。真の自由とは、そうした方が良いと知り、そうすればうまくいくと実感し、そうしたいと望み、その上でそれを成すことだ。

共産主義、そしてファシズム、ナショナリズムは否定すべきだ。

どうしてみんな権利や権力を否定する?権利があることは良いことだ。組織化することで効率よく物を作ることが出来る。どうしてみんな分離独立を否定する?その方が目的により合った、ニーズに適した物ができる。個人が力を持ってより良く物を作れるような、そういう環境が主にデジタルな世界であるのは良い。みんな価値観は違う。だがデジタルな業界において必ずしもそうだとは言い切れない。共通のプラットフォームがある方がアプリケーションの的確な動作環境ができる。なぜUNIXで駄目なのか?オプションを間近で見れるのは良いことだ。だけど、レジストリはコピーしづらい。テキストで良いのになぜ。そして管理ツールを作れば良い。大体GtkとQtが分裂したことが不幸の始まりである。YaSTのような共通の管理ツールがあれば良いのに。でもテキストを実際に把握できた方が良い。だからRedhatの方法にも一理ある。パッケージとして統合するならばDebianの方が優れているとも見える。ようは考え方だ。

ソフトウェアは機械の中の機械、ということになっている。本当はコンピュータを動かすテキスト、つまりプログラムに過ぎない。だからコピーできる。テキストである機械(道具)だからこそ、異質なのである。ここから多くの、アナログなもの、あるいは単なるコンテンツではない、豊かな考え方ができる。Windowsの世界はそれを会社の中に留めてしまった。残念なことだ。LinuxがもしWindowsと同じ、あるいはそれ以上の地位についたとしたら、豊かな考え方がたくさん生まれるに違いない。ハードウェアの種類も増え、そして、現実のソーシャルなあり様、考え方にも、単なるオープンソースな知恵の記録と入手、そして組織に留まらない、集合知的なもの(たとえばWikipedia)も含めた、多彩な文化が芽生え、社会制度にもそれぞれの意見としての目線をふんだんに活用することを学ぶための影響を与え、この世界の人々の意識もがらりと変化するに違いない。おお、Microsoftよ、Linuxを不当に不利な立場に置くのをやめたまえ。Linuxには可能性が、たくさんつまっている。

日本のフリーソフトのようなものに、Linuxがなるのは良いかは分からないがなるかもはしれない。しかし、僕はどうなるのが良いかを判断しようとは思わない。けれど、日本のフリーソフトも好きなのは確かである。

私は、世界を解決して、その上で、自らを高めることを望んでいる。その上で人を高めることができる文にすることを望む。

素粒子によって、粒子か波かという光のふるまいは決まっている。

自由は、平等に与えられた愛である。平等は、自由であるための愛である。人生は、命の経た経緯であり、これからの流れである。命は、唯一無二の永遠なものである。物質世界において、全ては唯一無二のものだ。永遠であり、永遠でない。命は、その物質世界だけに留まらず、宇宙の、あらゆるすべての次元に存在する。そして、命には、何もすることが無い。命は、全てを知っていく。命は、全てを知っていく。命は、全てを知っていく。

人類は、人であり、生態系は、命の地球における集まり、人種は、平等、死は、人生の終わり。

宗教とはものがたりの共有であり、つまり、なくなってしまうものの共有である。宗教の無い世界ではすべてがなくなる。それがわび、さびである。そして、変化こそ自由である。そして、宇宙においては何もなくなりはせず、そして、物質世界においては記憶として残る。そして、記憶の共有と宗教との対立がすべての現在の根源である。マルクスの資本論は宗教と同じである。僕はものがたりの共有より現実をとった。現実社会は素晴らしい物語の共有である。インターネットは特にそうである。だからそれが好きだった。

最後に、宗教が地域の違いであり、西洋と東洋の違い、そして、日本と世界の違い。

社会という幻想を与えるのが学校の役割である。学校では幻想を教えている。

だが、すべては幻想である。

現在の資本主義においては、消費は個人、生産は組織で成り立っている。全体主義の場合、生産を個人で、消費を全体で決定する。これは、個人主義において、消費を個人的に、全体で決め、生産を全体で、個人的につくるものを共有するのが良い。